37 志向性としての信念と願望 (20210326)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

信念と願望は、次のような心理的様態(志向状態)と表象内容(志向内容)をもつ。

   S(r)

   信じる(r)

   願望する(r)

 また、信念は心を世界へ適合させ、願望は、世界を心へ適合させるという「適合の方向」をもつ。

 また、pを主張するときの「誠実性条件」として、rを信じるという志向性があり、pを表現(表現型発話)するときの「誠実性条件」として、rを願望するという志向性があります。

 また、信念の充足条件は「rが事実である」こと、願望の充足条件は「rが事実になる」ことです。

以上のように、信念と願望は、志向性であると言えます。さらに、サールは、信念と願望の連言による結合によって、次のような複合的な志向性を説明します(参照、サール『志向性』訳40-42)。

  怖れ(p)→ 信(◇p)&願(~p)

  期待(p)⟷ 信(未来p)

  失望(p)→ 現在信(p)&過去信(未来~p)&願(~p)

  悲しむ(p)→ 信(p)&願(~p)

  悔い(p)→ 信(p)&信(pと私の結びつき)&願(~p)

  悔恨(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pに対する私の責任)

  非難X(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pはXの責任)

  喜んでいる(p)→ 信(p)&願(p)

  望む(p)→ ~信(p)&~信(~p)&信(◇p)&願(p)

  誇り(p)→ 信(p)&願(p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知る)

  恥じ(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知らない)

これは興味深い分析ですが、このように基本的な志向性から、複雑な志向性を合成して見せることは、スピノザの情念の説明を思い出させます。

 他方で、サールは、信念と願望は、因果的志向性を持たないと考えます。そしてこの点において、これまでの述べた知覚、記憶、行為内意図、先行意図と異なると言います。信念と願望は因果的志向性を持たないので、これまで述べた志向性(知覚、記憶、行為内意図、先行意図)を上記のような仕方で合成することはできません。

 サールは、「生物学的に志向性の基本形態」だとするのは知覚と行為であり、信念と願望は志向性の基本的な形態ではない、といいます。信念は知覚の「萎えた形態」であり、願望は意図の「萎えた形態」ないし「色褪せた形態」である(参照、同書47)といいます。

 以上がサールの議論ですが、気になるのは、信念が因果的志向性を持たない、という点です。以下で、これを検討したいと思います。

 「私がpなる言明を行うなら、私はpなる信念を表明していることにある」(同書12)

話し手は、ここで言明pと信念pは、同じ充足条件をもち、それはpが事実であることです。

このとき、人がpを言明する(あるいは信じる)ときには、根拠を問われたなら、それに答える用意があるはずです。つまり、何らかの根拠を意識している(あるいは、意識できる)はずです。

pを主張するときに、pを信じていないことは不誠実ですが、pの根拠を示せないことも不誠実です。したがって、主張pにともなう信念pには、「因果的自己言及性」があるように見えるかもしれません。

 無根拠に何かを信じることが全くないとは言いませんが、それは稀です。たいていの場合、何かを信じる時には、何らかの根拠を意識しています。ここで重要なのは、根拠帰結の関係と原因結果の関係の違いです。信念は、根拠を持ちますが、信念と根拠の関係は、論理的な根拠帰結関係であって、因果関係ではありません。したがって、信念が、「因果的自己言及性」を持つとは言えません。それがもつのは「根拠への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 他方、願望は、根拠を持ちませんが、理由結果関係をもちます。願望は常に何らかの理由を持ち、その理由はより上位の願望です。この意味で、願望は、「理由への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 このような信念と願望と、問いとの関係について次に考察したいとおもいます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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